今を救う何か。
人の不幸のうちの大半は脳内に存在する、ということを、
鬱で神経症の知り合いを持って学んだ。
その人の脳は悲しみと不安の製造機だった。
その人の毎日は、悲しみと不安で埋め尽くされていた。
でも、悲しみは、過去に対してのものと、他人に対してのもの。
でも、不安は、未来に対してのものと、他人に対してのもの。
自分には変えられないものを選択的に憂う脳を持ってしまったその人には、
だからいつでも、現在と、自分がなかった。
また、反面、現在であること、自分であることは、その人にとって恐怖だったので、
憂い続けるという状況を、その人が手放すことは出来なかった。
宗教は、未来の何かを約束したり、過去に意味を与えたりする。
いつか、救われる、
そう宗教は教える。
でもほんとに救われているのはその人の”現在”だ。
過去への悲しみと、未来への不安という”現在”が、信仰によって取り除かれる。
その信仰を持ち続ける限り、その人の現在は救われ続けている。
もともと、悲しみや不安の対象は、悲しまなければ、不安に思わなければ、存在しない、幻。
消えてなくなる。
未来の約束なんて嘘でもいい。
ありもしない過去と未来への憂いで一杯になった心を手放し、
その人が現在を取り戻しさえすれば、後は自分で幸せを受け取る脳の枠組みを作れる。
そう思って、私は一度、いっそのことその人が何かの宗教に入ってしまえば、
楽になるのではないかと考えたけれど、
その人の脳は”新しい考え方”そのものを拒否するので、無理そうだった。
(そもそも、認識の枠組みを変えられる勇気と柔軟性を持った人は、鬱にならない。)
その人は今も辛そうだけれど、さしのべられた手を全て振り払って、
不安の中に、安心している。
原因はなんとなく、分かる。
神経症の人はわりとそうだけれど、その人の母親が、その人に完璧を求めたようだ。
〜出来ないと、私には、価値がない。
その人の根幹にあるものだ。
その人の親はその人に、条件付きの愛という最悪なものを与えた。
私は、わりと仏教が身近なところで育った。
といっても、お寺の保育園に通ったり、親がお経上げてたりくらいで、
教義とかはよく知らない。
神道もそうだけど、私の周りにあった、普通に生活の一部としての仏教は
ただただ、日々安泰の感謝を捧げるという行為で、
なんだろう、what to do じゃなくて、how to be だった。
感謝できる脳の枠組みを保ち続けること。現実に関係なく。
それが私が仏教から学んだ、幸せの方法だった。
私がその人に伝えられる救いは、たったそれだけのことしかなかった。
当然、あまりにもインパクトがなく、
全くそれは、無力だった。
しょうがないので、その人に、ありがとうという。
そうすると、その人は少しだけ幸せそうな顔をする。
幻かも知れないけど。
to be の信仰しか知らない私は、to be しか、やれることがないのだ。
他人に何かをさせることは出来ない。
今日は、id:finalventさんが、悲しみについて書いていた。
(あんまりぶくまコメントばっかりするのも何なのでエントリ、、)
どんなに悲しいことでも、今悲しいのでなければ(という言い方が曖昧だけど)、悲しかったのは過去だ。死別も、傷つけられたことも過去。
そして、たいていは、悲しいというのは、過去を悲しむ、というか、記憶を悲しんでいる。もっと正確に言えば、不在を悲しむ。悲しみの対象は、無だ。
まあ、続きというか - finalventの日記
その人に対して、そんなことを思っていたので、これは、共感した。
自分事としてではないけれど。
その人は、何か大きな幸せ-他人と比べて-が自分の身に降りかかれば、
その人の今までの”不幸”は帳消しになると思っているようだった。
自分の欠損が、欠落が、喪失が埋められると。
でも、もちろん、そんなことは、ない。
悲しみと喜びが相殺なんてするわけがない。
その欠乏感が消えるわけがない。
受け取る喜びが大きければ大きいだけ、より渇くだけだ。
私は、正負の法則は信じない。
今が不幸だから将来幸せになるわけでも、
今が幸せだからいつか不幸になるわけでもない。
不幸な人は不幸なままだし、幸せな人は幸せなままだ。
不幸である人はそれを不幸ではないと認識しないかぎり幸せにはならないし、
幸せである人はそれを幸せであると認識している限り幸せだからだ。
私は、to be の信仰を、どこかからもらったせいか、
世間一般の不幸を被っても、認識する神経が少し足りなかった。
ポリアンナのように、率先して幸せを見つける神経もなかったけれど。
まあそれなりに、壊れずに淡々と過ごしている。
その人が恐怖する場所にだから私は今、たまたまいる。
ちょうど、いいことも、わるいことも、何もないので、
脳がすごくフラットだ。
でもちょっと思った。その状態を”幸せ”とは、その人は呼ばないのだ。
別に私も幸せとは呼ばないけれど、満足はしている。
でもその人は、きっとしない。
内藤:傷ついた全能感が出発点なのではなく、傷ついたから全能感という二流の餌をガツガツ喰うという構図です。全能感というのは、根本的にみすぼらしいものです。幸福に生きている人は、全能感のにおいをさせないものです。平凡で、ぱっとしない人生を喜んで生きているものです。逆に卓越したことをこれみよがしにやっている人はダメな人が多いですね。
内藤朝雄さんスペシャルインタビュー その1 - 内藤朝雄HP −いじめと現代社会BLOG−
希望とか理想とかそういうもののも実は、そうした不在の過去の「私」の欲望なのだろう。
でも、その欲望がなければ「私」は惨めだし、たぶん、なんの支えもなく、今度は自分自身の存在すらも消してしまいたくなるものなのだろう。
なぜ人の心がそのように出来ているのか。
そのような心になにか人間の生存上のメリットがあるのだろうか?
そして、この構図において救済がありえないのに、なにか救済や生の高揚を願う。あるいは、高揚だけを(ニーチェのように)価値とするしかない。でも、たぶん、その高揚も無意味なのだろう。
まあ、括弧付けでない私は、なぜ傷を抱えて離さないのかといえば、それを失うことの恐怖のほうがはるかに強いからだろうし、身体は深く恐怖に呪縛されていて、抜けることができない。
まあ、続きというか - finalventの日記
こういう(ってまとめてしまうのもあれだけど)、大きな悲しみを、抱えた人達の文を読むと、もやもやとする。
神経が鈍かったのか、悲しみの量が足りなかったのか、
悲しみを抱え損ねたような、私みたいなのは、
村上春樹の良さがさっぱり分からないときと同じような、
もやもやを感じる。
到達するところがフラットじゃいけないのか。
手放して、他の人と同じように、何事もなかったかのように、
何の苦労も知らない連中と同じように、振る舞うんじゃだめなのか。
私の脳で考えられる限りの最高の幸せの状態というのはそこにあるけれど、
そういうのは、理解してもらえないというか、多分、幸せではないと、言われてしまうのだと思う。
その人の事を考えると、
その人の未来にどんなに振り幅の大きい喜びが舞い降りようと、
多分その人は救われない。
今を救う何かでなくては、いけないんだけれど。
むずかしーね。
所詮は他人事だって、
思ってるからかな。