旧 はてブついでに覚書。

はてなダイアリーを移植して以降、更新しておらず

ファイアウォール、としての言葉

言葉というのはものを伝える手段として効率が悪い。
お互いに文法と語彙のデータベースを持ち、
出来れば文化も共有、もしくは理解し、
その中から伝えたいことがきちんと伝わるように単語を、語順を、語感を、語尾を、タイミングを、間を、呼吸を、慎重に選んで発話し、
やっと相手にものが伝わる。・・がんばって、80%くらい。


私たち日本人の多くがほかの国で的確に思う存分ものが伝えられないことからわかるように、
使用する言語が違う、それだけで、同じ人間であっても、私たちの意志は、思いはほとんど伝わらない。
生活にかかわるベーシックなことならまだしも、
抽象的になればなるほど、壊滅的に伝わらない。
You know, わかるでしょ? いいえ、知らない。言葉と文化が違うから、知らない。


言葉は時間だ。
言葉は時間を食う。
話すのも書くのも、聴くのも読むのも。


だから、めんどくさいから、
テレパシーみたいに、脳内イメージごとどかっと他人に渡せるような、
あそういうコミュニケーションの仕方が出来る日がこないかしらんと
私は思っていた。幼稚に素朴に。
言語による意思伝達がダイアルアップなら脳内イメージ交換はブロードバンドみたいな。
脳内イメージとそのときの「自分の」感情をそのまま伝えるのだ。一瞬で。
今の言語による意思伝達だと、たとえ言葉が伝わって事象の共有が出来たとしても、
それに対して相手が同じ感情を抱くかは、自分の感情を理解してくれるかは未保障だ。
でももし、脳内イメージと自分の感情を他人にそのまま転送できたら、
相手は確実に自分を「理解」する。
だって他人の喜びや痛みが”そのまま”体験できるのだから。



と、思ったんだけど、よく考えたら、ちょっと違うな。
と気づいた。


そうすると、私は言葉をきちんと作り出そうと努力をしなくなる。
ざっくりイメージすればそれが相手と共有できるのだから、
わざわざ言葉なんて解像度の低いものに変換する必要はない。
ていうか、言葉要らないじゃんそれなら。


言葉の要らない私。
言葉のない私がいたとして。
あれ?それは、誰?


もし他人がその人の脳内イメージをそのまま私に伝えることが出来るなら、
その人は私の器官だ。
その人は、私の代わりに考え、私の代わりに見聞きし、私の代わりに体験してくれているようなものだ。
逆もそう。私は他人の器官になれる。私はやろうとすれば、私をすべて他人に伝えられる。情報の解像度を下げることなくコピーできる。
はいこれデータ。読み込んでおいてね。


もしそういうことが出来たら、
私たちはそれでも、他人を他人として認識するだろうか。



言葉を尽くしても尽くしても、
決して伝わらない自己自身。自己のすべて。


しかしもし本当に100%伝わってしまったら、理解されてしまったら、
その相手は他人だろうか。
経験をすべて追えるのに?
感情がすべて理解できるのに?




言葉は、本当に危うくて信用ならなくて、
無駄に時間を食って、抵抗でほとんど電力が伝わらない電線みたいに効率悪くて、
本当にしょうがないんだけれども、


でも、もし自己が自己であることが生きる意味の一つになるのなら、
他者が他者であってくれることがまず、
自己が自己であることの第一歩なので、


言葉くらいがやっぱ、ちょうどいいかなとか、思い直した。
言葉が伝わらない断絶は人に、
他者が他者である絶望と同じくらい、自己が自己であるという希望を与える。
きっと。



あとまあもちろん、実際面と向かえば、全然言葉だけじゃないしね。
いろいろ違う通信規格とか、ゲートウェイ設定するのも楽しいし。