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罪っていうのは

罪っていうのは、実際には存在しないんだろうなあと思った。
人間同士の取り決めや法律という意味ではもちろん存在するけど、
創作された概念なんだなあ(もちろん大変有用で重要な)。


人を殺しても、その殺した人を恨んで八つ裂きにしても、
人を陥れても、そしてその人に報復しても、
浮気や不倫をしても、そしてそれを恨んで刺し殺しても、
自殺をしても、自己中でも、性格が悪くても、文句を言っても、
不遜でも、横暴でも、幸せを求めても、お金を求めても、消費ばかりしていても、怠惰でも、
神のように絶対的に、罰する存在なんていうのはいないんだろうな。


自分は「罪」を犯していないから、
自分は「いい行い」をしているから、
あの人はきっと変わってくれるし、
私は誰かに評価される日が来るし、
あのひどい人にはきっと不幸が訪れるし、
私は悪を犯さないようにしてきたから死後よいところに行けるし、
とかそういう自分で勝手に作り上げた善悪の基準とそれに沿った「善い」行いをするという人間独特の欲というかエゴはだから、
特にそれに報いてくれるサムシングというのは存在しないんだろうなあ。


今目の前に存在する人間という唯一の実際的存在があって、
その人が「〜であるべき」と思うとき、
それは日常生活では社会的なプロトコルに照らし合わせてそれを根拠に
提示するわけだけれど、
そういうのをすべて取り払った実存としては、
その「べき」は、私のエゴであり、願望としてしかない。


私はエゴを自覚してエゴを隠さない人間というのは、
本人はメタな存在からの救済を傲慢に過信し、かつ他人にも外部からの「べき」を当然のように押し付けてその人のエゴの発露を無自覚に抑圧する「善人」達よりよっぽど好きだけれど、


そうした、むき出しのエゴの発露自体を(〜べきという隠蔽された別のエゴで)抑えるんじゃなく、
どうしようもないその存在自体は認めて、でも受け入れられないと今度は自分のエゴを実存として伝える時、
もしくは自分のエゴとして目の前の人に優しく、誠実でありたいと思う時、
それはきっと相手にとっては絶対的な「善」なんじゃないだろうか。
その人に人として報いたい、という感情を呼び起こすような。



罪だからそれはやらない、もちろんそれは機能すべき大切な取り決めだし、
自分はそれに従うけれど、
でもそれを破った他人が、法律的にではなく、実存として何かメタな存在に罰される、ということを期待するのは無意味だろう。


ただ、私たちの前には常に人がいて、彼らに自分がどういうエゴをぶつけたか、
そして自分がどれだけを受け止めてきたか、受け止められなかったか、
材料はそれだけなんだろう。
人と人としか存在しないこの社会の中で、人生の中で、縁の中で、
「報われる」としたら、それは人からでしかありえないし、
だからこそ、罪なんて取り決めよりもずっと重い、
日々の何千という選択の積み重ねの、大切な大切な何かなんだろうと思う。
それに誠実でありたい。