集合知は「正しさ」の最適解を出すか
私の学生時代の専攻にはたまたま「倫理」という文字が含まれていた。
特に倫理に興味があったわけではなく、
大した向学心もなく入った学部内で、
消去法で好きな思想家(へーげる)を選ぶとその専攻になっただけだった。
結果、デフォルトで善さを求めるマインドセットがなされた素敵な魂の
いかした思想をいろいろ教われた。
私はデフォルトの善さへの指向性自体が彼らよりずいぶんと薄かったので、
(文化として価値基準として根付いたキリスト教v.s.盆彼岸正月困ったとき限定仏教徒の格差)
「なぜ善くあらねばならないか」
まずはそこからトレースしていくのは興味深い経験だった。
まあ、元の世界観が違いすぎて、結局心から共感するにはいたらなかったけれど。
個人的に現時点で持っている「倫理」の定義は、
「引くこと」だ。
各自が他人の価値観をリスペクトして自分を一歩引くこと。
そこにできる道、のイメージ。
能動的に誰かに働きかけるto doじゃなくて、
静かに「他」を受け入れるto be、みたいな。
思想や信念じゃなくて、受容や理解が近い。感じ。
倫理的であろうとすることは、何かに従うことじゃない。
外の規律に従うこととも、内の信仰や信念に従うこととも違う。
目の前に自分と同じ人間がいる。対等な価値を持つ人間。さてどうするか。どう尊重するか。
その配慮を自分に課すこと、だと思う。
正解があるわけじゃない。でもその答えのない問いを自分に発し続けること。
その態度を倫理的、と呼ぶ感じかな。
とりあえず私の中では。
これだけ多様な価値観をもつ人間が住んでいる世界には
全員の合意を得られる絶対的な善はない。
それどころか世界には私の中では「ありえない」価値観であふれてる。
まったく嘆かわしいわイラつくわこの上ないが
まあ、向こうから見れば私こそがそうなわけで、
まあとりあえずはお互い様だよね、というところからはじめられる
最低限の寛容性というか。その辺が倫理領域かなあと思う。
多様性を多様性のままに。
もちろん、お互い干渉しないという意味ではない。
批判しあうときはとことん批判しあう。それもアリという価値観だったり、
時にはその寛容性を保てない「不寛容に対する寛容」であったり。
まあぐちゃぐちゃになるけれど、煮え切らないけれど、
もうしょうがないそれを、そのまま受け入れること。
と、と、いうことができるか、というとそれはまた別の話、
というのが大学卒業後ごにょごにょ年した私でございます。なかなかねー。
私は煮え切らない、というのが苦手なタチで、どうもさっさと善悪ジャッジしてしまう。
だから同じくさっさと自分の考えを主張する人たちは好ましいわけですが、
(受け入れるかどうかは別の問題だけどいわなきゃ伝わらないし批判もし合えないし)
あいまいにとどめてる人たちは「で?オチは?結論は??暫定でもいいからなんかないの?」
とこう、結論を早急に求めてしまう。
これはアリ、これはナシ、分かり合えないものはスルー。さあ次の気分いい価値観へゴー。
その速度が滞るとちょっと絶えられない。
それで一生終われないこともないんですが、
深みがないですねいまいち。なんといいますか、魂的に。
村上春樹さんが少し前に、エルサレム賞というのをもらったそうで、
そのスピーチをネットで読んだ。
私は彼の小説はまさしく煮え切らないのでイライラしてなかなか読めない私だけれど、
スピーチはいやおうなしに目に入り込んできたので読んだ。
で、びっくりした。
元の英語の全文が出て、多くの人が訳してくれてる。
極東ブログさんの訳を引用させていただきます(全文読んでない人はぜひ読んでみてください)。
Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:
私の個人的なメッセージになるをお許し下さい。それは私が小説を書くときいつも心に留めていることです。メモ書きして壁に貼っておくとかまでしませんが、それでも私の心のなかの壁に刻み込まれているものです。こんな感じです。
"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."
「私が、高く堅固な一つの壁とそれにぶつけられた一つの卵の間にいるときは、つねに卵の側に立つ。」
Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg. Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?
ええ、壁が正しく、卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。何が正しくて何が間違っているか決めずにはいられない人もいますし、そうですね、時の流れや歴史が決めることもあるでしょう。でも、理由はなんであれ、小説家が壁の側に立って作品を書いても、それに何の価値があるのでしょうか。
村上春樹、エルサレム賞受賞スピーチ試訳: 極東ブログ
「何が正しくて何が間違っているか」なんて絶対的な解はないと知っていながら主観では決めずにいられない私、
その忍耐力の無さが私が彼の小説を読めない一番の原因であることを知りました。
煮え切らないものを煮え切らないままに受容して表現するのが小説家の底力なのかと。
はぁぁ。
過去に戦争をした国の人と、その過去について話したりするときに、
体制や思想の一部として相手を見てしまうと最悪掴み合いの喧嘩になったりするわけですが、
そこで個が対話をするときに取りうる手段というのは、
お互い個人としての話をする、ということに尽きる。
お互いに個としてリスペクトすること。
相手の痛みや悲しみに共感すること。どうにかそれができれば、通じ合えるような。
まあ、すごく難しいけど。
春樹さんは戦闘の地でのスピーチで、聴衆の個々の魂に話しかけた。体制の一部としての人民ではなく。
聴衆の魂をリスペクトした。何があってもそっちを尊重すると。善悪じゃなしに。
体制としての個へ話しかけると、体制としての個が呼応して身構えてしまう。
そこから聴衆の魂を開放して、同じように悲しみを持つ相手の魂への共感を呼び起こさせた。
これは素直に、すごいなあと思った。
思いつかないし。思ってもやれることじゃないし。
感動した。
んでちょっと自分を省みた。
ああいや、割と。
私はネットを、どちらかというと自分が結論を出すツールとして使っていた。
ネットだけじゃないな、小説や思想書なんかも。
自分の価値観を決定する材料として参考にしていた。
ネットの集合知によって、いろんな「結論」が、最適解が出るんじゃないかなと
思っていた。
今もその思いはある。
うまくお互いをリスペクトしながら、一番お互いに傷つかない、平和な価値観に
世界が収束していくとかできないのかと。
「結論」が、出る日が来るのではないかなと。
違うのかもね。煮え切らないものに、結論を迫ることではなくて。
相手に誠実であること、自分に誠実であること。
その時々でそれを選んでいたら、卵の側に寄り添っていたら、
そこには結論も思想もない。
ただお互いを大切にするという思いだけ。
倫理という言葉を思い出した。それで。
ものすごく久しぶりに。
ああそういえば、と。
自分が目指していたはずだったのに、長い間、忘れていた気がする。