ウェブで重なる時間達
最近ウェブの流れがリアルのコミュニケーションと同じくらいに速くなって、
時間の感覚が変わってきた気がする。
ウェブとリアルの違いの一つは過去ログが残るかどうかで、
そのおかげでウェブのコミュニケーションは非同期で成り立つ。
私達は同じ時間に同じ場所にいなくていいし、
あなたの今が私の過去だったり、私の未来があなたの今だったりする。
それがすべて1人の人から見た場合、同時に存在している。
考えてみると、たとえばリアルでの私の身体は「過去ログ」にあたる。
今までの食生活、生活習慣、姿勢の総和。
それを総動員してリアルに目の前に存在する「現在」に向かう私。
ダイエットやら化粧やらはなんというか、過去の隠蔽のような気分を伴う。
終わり(最新体型)良ければすべて良し、過去がなかったことに。
ならないかなあとか。そんな欲望。
ウェブ上でのコミュニケーションで実感できるのは、
「人は変わる」ということだ。
「言質」という言い方で、本人が一度でも口走ったことを鬼の首でも取ったように振りかざすことは、リアルでは割と有効かもしれない。まだ。
しかし人は変わる。心も変わる。
(もちろん、契約的なこと、約束は、変わってちゃいけないんだけど、そういう実務的なことじゃなくて、なんていうか、ちょっとした主義とか。)
言質。あのときああいったじゃない。
そうやって他人を責めることの虚しさは誰もが知ってる。
空虚な責任感によってその言葉通りに行動することは人は出来るけれども、
その人の心は、そこにはもうない。
「あの時ああいったじゃない。」
これはウェブでは、ログとして残る。
本人が消そうと、一度ネットに出てしまったら瞬時にキャッシュやコピーが可能なウェブでは、あまり意味がない。
それは恐ろしいこと?
そうかもしれない。不用意な発言とか。酔っ払った醜態とか(笑)。
でも、ウェブではいえる。
「あの時は誤っていた」と、「もう気が変わってしまった」と、「あれから成長した」と。
そしてそれは「あの時」と等距離に、ウェブ上に置かれる。
人は変わる。
それを許さない人はいる。でも許さない人を置いて、
ウェブは進んでいくし、多くの人は、人が変わることを許容する。
むかついても仲直りするし、怒っても許す。
「あの時ああいったじゃない」で怒り、「あの時ああいったけど」を受け入れる。
そしてそれは同時に、変わらないものも露にする。その人が変われないものを。
リアルでも同じではあるんだけれど、何というかな。
リアルでの過去は人々の記憶で維持される。
ウェブでは生のまま素材としてある。
現在で過去が消えないのね。上書きされない。
過去ログと現在が等距離にある世界。
恥ずかしい過去と塗りつぶした現在が並立する世界。
両方とも自分だとしか言えない、諦念するしかない世界。
言葉を重ねるごとに、
時間に厚みが、人に厚みが出てきた気がする。
幾重もの現在が、目の前に広がっている感じ。
人は綺麗な生き物ではないから、
揺れたりにごったりしながら日々自分を重ねていくんだけれども、
それでも綺麗なものにたどり着きたいとか、
そういう願いがあって、そういうのが、時間を前に進めているのだなとか、
よくわかんないんだけど、楽しいなあと思う。