何者かになろうとして20代をすごすか、何かを経験したいと思って20代を過ごすか
人が何かやるとか、何か持つっていうのは、
純粋に対等にそれが好きな場合と
それにかかわることで自分にメリットがある場合とがある。
たとえば夫は好きだからゲームをする。
私は痩せるかもしれないからWiiFitをやる。
子供は自分の好きなものをほしがる。
親はそれを持つことによって子供のスペックが上がるものを与えたがる。
ある大学生は自分の疑問を解決したいために本を読む。
違う大学生はそれを読むとモテるのではないかと考えて本を読む。
あるダメな30代は楽しいからTwitterをする。
ある堅実な30代はTwitterで「役に立つ」「情報」が「得られる」と踏んでからTwitterを始める。
・・マーケティング用語とか心理学用語とかいろんな分野でたぶん名前が与えられているんだろうけどつまり、
私たちが何かほしかったり、何かやりたかったりするのは、
それが純粋な欲求である場合と、自分の優越に寄与する見込みがある場合とがある。
大体の人は、この2つの欲求回路をバランスよく持っていて
まあ適当に楽しんだり、計算して楽しんだりして生きてる。
学校からしてそうだよね。学業は打算込み、部活やサークルは楽しむ。
(学業が純粋に大好きな人も、部活が打算な人ももちろんいるけど!)
だけど人生の時期によって、人によって、どちらかが強い場合がある。
私は、単なる趣味は適当に楽しむんだけど、
人生にわたって楽しみたいような、仕事としてとかで「やりたいこと」が、
今までの生涯通じて特にない。
しかし、20代までは「何かをがんばらないといけない」という勝手な強迫観念があって、
「なにかやりたい」がない私は、「何かになりたい」でそれを代用しようとしていた。
何もやりたいことがないくせに、「何者かでありたい」と思っていた。
まあ、指針がないので空回りというか、回ってもいませんでしたけど。
てかなりたい「何者か」すら思いつかなんだ。
かたや、やりたいことが多すぎて、その道を行くので精一杯で、
メタな自分の認知というか、これをやってこれを身に着けてこういう俺、とかそういうビジョンなんてどうでもよく、
熱中して20代過ごす人もいた。
あれを人生の充実というのだろうなあなどと
うらやましかったりした。
20代って、思うんだけどさ、
私はなんか残念な感じだったけど(まあ途中で開き直りましたが)、
できれば「何者か」なんてメタ目線で人生を過ごさないで、
対等な目の前の何かに、打算なく取り組んだほうがよいと思う。
何者かになりたかっただけの人、つまりやること自体は目的ではなく手段だった人ははいろいろと中途半端に年を取るけど、
何かをやりたかった人、つまりやること自体が目的だった人は、それなりに充実していくでしょ。
特に20代で打算なく経験をいろいろした人は、30代から違う気がするよ。なんとなく。
遊び倒しただけでも違うと思う。「将来のため」とか言って自分の欲求犠牲にしてきた人より。
今ふと思い出したんだけど、大学の教授まで行く人って、好きで学問やってる人ばかりだと思うじゃない。
でも違ったなそういえば。
私が教わった先生にも、純粋に哲学が好きな人と、哲学を語る教授でありたい人がいたなあ。
「何者かになりたい」という欲だけでも出世ってできるのだよね。
勉強すること自体は同じだしね。
アーティストなんてのも、純粋に好きである部分だけじゃなくて、
何者かでありたいという欲ドライブでいい作品を生み出しているのかもしれない。
でもなあ、やっぱり、
その、やること自体が報酬、っていうのが楽しそうなんだよなあ。
やってそれをほめられたり認知されることが報酬っていう、評価待ちばかりの人生よりもね。
なんつうかそのほうが最低限、年を取ってめんどくさい感じの人間にならない(笑)。
好きなことばっかりやってていいのかっていう不安(社会的なあれよね)もあるけどさ、
案外、好きなことに本気になってやったほうがいいような気がしてる、誰もが。
就活であれ婚活であれ打算で何かやる場合には自分がそこに近づいていかなければいけないけれど、
本気で何かやってる人にはそれがどんなことであれ、人や縁が集まってくるしね。
まあでも自分の昔を考えても、今の若い人を見ても、
自分本来の欲求がマスキングされやすい社会だなあと思う。
私もいまだに何が本来の欲求だったかよくわかんないんだけど、
でも最近やっと、結構野生に戻ってきたきがするw
もう20代は終わってしまったけれど、まあ何でも楽しんで生きていこうと思うこのごろ。